往昔鶴岡社參ノ武人ハ此ノ邊ニテ馬ヨリ下リ、徒歩ニテ詣デタルニ因リ、下馬ノ稱アリ。今ニ地名トシテ存ス。此ノ地點ハ鎌倉ノ要路ニ位セルヲ以テ屡々戰場ノ巷トナリシコト古書ニ見ユ。尚ホ文永八年(皇紀一九三一)九月十二日、日蓮聖人、名越ノ小菴ヨリ龍口ノ刑場ニ送ラレタマフ途上、鶴岡ニ向ヒ、八幡大菩薩神トシテ法門ノタメ霊驗ヲ顯ハシタマヘト、大音聲ニテ祈請アリシハ下馬橋附近ナルト傳ヘラル。
昭和十二年三月建 鎌倉町青年團
段葛は当初滑川尻まであり、鶴岡社参の武士は、この碑のある辺りで馬よりおり、徒歩でゆくことが定められていました。即ちこれより先は神聖にして侵すべからざる地域であり、敵襲に際しては戦略拠点として、一帯には高い土塁が築かれていました。現在はにぎやかな小町商店街となっています。日蓮上人は、蒙古来攻の危機に臨み、北条時宗に対して、法華経の絶対性を説くべく、各宗派の僧との公場対論(公開討論)の場を設ける事を説き、念仏、禅、真言、律を邪宗として否定、悪口(あっく)の罪により龍口刑場に送られたが処刑直前、赦免使が到着、死一等を減ぜられ、佐渡流罪となりました。時に文永八年(1271年)9月12日。文永11年(1274年)5月12日、赦免。 その予言通り、10月蒙古軍来攻。 徒歩(かち) 法門(仏教の教え)。
〔参考〕
現在碑の立つ下馬は、鎌倉に三つある下馬橋のなかの、下の下馬橋の位置にあたる。この地は南北に直行する若宮大路と直行する交差点で鎌倉中の最も繁華を極めたところ。上の下馬橋は三の鳥居の前、中の下馬橋は二の鳥居の前にあった。江戸時代の図によると、不浄の人は若宮大路を横切ることはゆるされず、川の脇に沿って橋の下をくぐるようになっている。八幡宮崇敬のならわしがあらわれています。