• 59 下  馬 げば


碑の説明

往昔(おうせき)鶴岡(つるがおか)社參(しゃさん)武人(ぶじん)ハ此ノ(あたり)ニテ馬ヨリ()リ、徒歩(かち)ニテ(もう)デタルニ()リ、下馬(げば)(しょう)アリ。今ニ地名トシテ(そん)ス。此ノ地點(ちてん)鎌倉(かまくら)要路(ようろ)(くらい)セルヲ(もっ)屡々(しばしば)戰場(せんじょう)(ちまた)トナリシコト古書(こしょ)()ユ。尚ホ文永(ぶんえい)八年(皇紀(こうき)一九三一)九月十二日、日蓮(にちれん)聖人(しょうにん)名越(なごえ)小菴(しょうあん)ヨリ(たつの)(くち)刑場(けいじょう)ニ送ラレタマフ途上(とじょう)鶴岡(つるがおか)ニ向ヒ、八幡(はちまん)大菩薩(だいぼさつ)(しん)トシテ法門(ほうもん)ノタメ霊驗(れいけん)(あら)ハシタマヘト、大音聲(だいおんじょう)ニテ祈請(きしょう)アリシハ下馬(げば)(はし)附近(ふきん)ナルト(つた)ヘラル。

昭和十二年三月建  鎌倉町青年團



段葛(だんかつら)当初(とうしょ)滑川尻(なめりがわじり)まであり、鶴岡社(つるおかしゃ)(さん)の武士は、この()のある(あた)りで馬よりおり、徒歩でゆくことが定められていました。即ちこれより先は神聖にして侵すべからざる地域であり、敵襲(てきしゅう)(さい)しては戦略(せんりゃく)拠点(きょてん)として、一帯(いったい)には高い土塁(どるい)が築かれていました。現在はにぎやかな小町(こまち)商店街(しょうてんがい)となっています。日蓮(にちれん)上人(しょうにん)は、蒙古(もうこ)来攻(らいこう)の危機に臨み、北条(ほうじょう)時宗(ときむね)に対して、法華経(ほっけきょう)の絶対性を説くべく、各宗派の僧との公場(こうば)対論(ついろん)(公開討論)の場を設ける事を説き、念仏(ねんぶつ)(ぜん)真言(しんごん)(りつ)邪宗(じゃしゅう)として否定(ひてい)、悪口(あっく)の(つみ)により龍口(たつのくち)刑場(けいじょう)に送られたが処刑直前、赦免使(しゃめんし)が到着、()一等(いっとう)を減ぜられ、佐渡(さど)流罪(るざい)となりました。時に文永(ぶんえい)八年(1271年)9月12日。文永(ぶんえい)11年(1274年)5月12日、赦免(しゃめん)。 その予言通り、10月蒙古(もうこ)軍来攻(ぐんらいこう)。  徒歩(かち)  法門(ほうもん)(仏教の教え)。


〔参考〕

現在碑の立つ下馬は、鎌倉に三つある下馬橋のなかの、下の下馬橋の位置にあたる。この地は南北に直行する若宮大路と直行する交差点で鎌倉中の最も繁華を極めたところ。上の下馬橋は三の鳥居の前、中の下馬橋は二の鳥居の前にあった。江戸時代の図によると、不浄の人は若宮大路を横切ることはゆるされず、川の脇に沿って橋の下をくぐるようになっている。八幡宮崇敬のならわしがあらわれています。


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