• 61 主馬盛久之頸座 しゅのめもりひさのくびざ


碑の説明

(もり)(ひさ)主馬入道(しゅめにゅうどう)盛國(もりくに)()ニシテ、平家(へいけ)累代(るいだい)家人(けにん)ナリ。(しか)ルニ平家(へいけ)滅亡(めつぼう)(のち)(きょう)(みやこ)(ひそ)年来(ねんらい)宿願(しゅくがん)トテ清水寺(きよみずてら)參詣(さんけい)()()北條(ほうじょう)時政(ときまさ)(ひと)ヲシテ召捕(めしとら)ヘシメ、鎌倉(かまくら)護送(ごそう)シ、文治(ぶんじ)二年六月此地(このち)()(ざん)(ざい)(しょ)セラレントセシニ()(ずい)アリ、宥免(ゆうめん)セラレ(あまつさ)(より)(とも)(その)所帯(しょたい)安堵(あんど)(くだし)(ぶみ)(たま)ヒシトイフ。

昭和十年三月  鎌倉町青年團建



笹目(ささめ)バス(てい)(さき)にあり。主馬(しゅめ)宮中(きゅうちゅう)(うま)を司る役所の役人をいう。役所名(やくしょめい)主馬寮(しゅめりょう)という。累代(るいだい)代々(だいだい)家人(けにん)家来(けらい)平家(へいけ)滅亡(めつぼう)(1185年3月24日(だん)(うら)にて)。文治(ぶんじ)2年(1186年平家(へいけ)滅亡(めつぼう)翌年(よくとし))。()(ずい)吉凶(きっきょう)ともに用いる奇妙な現象。(もり)(ひさ)()ると、あとによくないことがおこるというようなことを示す不思議な現象がおこったのでしょう。宥免(ゆうめん)(ゆる)されること。(あまつさ)へ=さらにそのうえ。所帯(しょたい)=中世時代は所領を意味しました。安堵(あんど)所領(しょりょう)法的(ほうてき)保証(ほしょう)下文(くだしぶみ)=命令文書。この場合は頼朝(よりとも)盛久(もりひさ)所領(しょりょう)没収(ぼっしゅう)しないという保証を与えた文です。源氏(げんじ)(だん)(うら)平家(へいけ)(やぶ)ると戦後(せんご)処理(しょり)として平家(へいけ)残党(ざんとう)()りを行います。その指揮をとったのは、北條(ほうじょう)時政(ときまさ)です。かれは、償金をかけて密告を奨励、多くの人々が捕らえられました。時政(ときまさ)は裁判もせず即決で、これらの人々を処刑したので、京都の住民は(京童(きょうわらべ)・きょうわらべという)恐れおののき、捕らえられた者の中に盛久(もりひさ)がいました。


〔参考〕

京都で捕われた盛久は、文治二年(1186)六月二十八日、由比浜で処刑にされる時、西に向かって十遍の念仏を唱えたあと、さらに南に向かってまた念仏を唱えたので土屋宗遠は太刀を抜き盛久の頸を討とうとした。そのとき不思議にも太刀が途中より折れ、また打太刀も目貫のところから折れてしまった。あやしきことよと思っていると、富士山のすそのの方から二筋の光が走ってきて、盛久の身にあたった。宗遠は驚いて使者を頼朝のもとに走らせてこの由を言上した。政子も夢の中で老僧が現れ、「盛久を赦免するように」と申したことを頼朝に告げたので、頼朝は盛久の斬首をゆるし、その上、紀伊の国(和歌山県)に所領を与えたという。


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