盛久ハ主馬入道盛國ノ子ニシテ、平家累代ノ家人ナリ。然ルニ平家滅亡ノ後、亰都ニ潜ミ年来ノ宿願トテ清水寺ニ參詣ノ歸途、北條時政、人ヲシテ召捕ヘシメ、鎌倉ニ護送シ、文治二年六月此地ニ於テ斬罪ニ處セラレントセシニ奇瑞アリ、宥免セラレ剰ヘ頼朝其所帯安堵ノ下文ヲ給ヒシトイフ。
昭和十年三月 鎌倉町青年團建
笹目バス停先にあり。主馬は宮中の馬を司る役所の役人をいう。役所名は主馬寮という。累代=代々。家人=家来。平家滅亡(1185年3月24日壇ノ浦にて)。文治2年(1186年平家滅亡の翌年)。奇瑞吉凶ともに用いる奇妙な現象。盛久を斬ると、あとによくないことがおこるというようなことを示す不思議な現象がおこったのでしょう。宥免=許されること。剰へ=さらにそのうえ。所帯=中世時代は所領を意味しました。安堵=所領の法的保証。下文=命令文書。この場合は頼朝が盛久の所領を没収しないという保証を与えた文です。源氏は壇ノ浦で平家を敗ると戦後処理として平家の残党狩りを行います。その指揮をとったのは、北條時政です。かれは、償金をかけて密告を奨励、多くの人々が捕らえられました。時政は裁判もせず即決で、これらの人々を処刑したので、京都の住民は(京童・きょうわらべという)恐れおののき、捕らえられた者の中に盛久がいました。
〔参考〕
京都で捕われた盛久は、文治二年(1186)六月二十八日、由比浜で処刑にされる時、西に向かって十遍の念仏を唱えたあと、さらに南に向かってまた念仏を唱えたので土屋宗遠は太刀を抜き盛久の頸を討とうとした。そのとき不思議にも太刀が途中より折れ、また打太刀も目貫のところから折れてしまった。あやしきことよと思っていると、富士山のすそのの方から二筋の光が走ってきて、盛久の身にあたった。宗遠は驚いて使者を頼朝のもとに走らせてこの由を言上した。政子も夢の中で老僧が現れ、「盛久を赦免するように」と申したことを頼朝に告げたので、頼朝は盛久の斬首をゆるし、その上、紀伊の国(和歌山県)に所領を与えたという。