嘉禄元年三月、二位ノ襌尼政子、頼朝追福ノ為、笹目谷邊ニ於テ方八町ノ地ヲ卜シ、七堂伽藍ヲ營ミテ長樂寺ト號ス。元弘三年五月、北條執權滅亡ノ際兵燹ニ罹リテ焼失セリト。此ノ地即チ其ノ遺址ニシテ、今ニ小字ヲ長樂寺ト呼ベリ。
昭和六年三月建之 鎌倉町青年團
嘉禄元年(1225年)この年の七月、政子は死ぬ。追福 法事。死者の冥福を祈って遺族が善事を行うことで追善ともいう。政子は夫の追福のため、長楽寺を創建。兵燹=燹」は戦争による火災。兵火のこと。罹リテ。小字「字」=村の中の小区分。
〔参考〕
嘉禄元年(1225)政子が頼朝の菩提を弔うために建てた寺というが、吾妻鏡にはその記録はありません。大町に政子が開基した安養寺という寺があり、ここの寺伝によると、この碑のところに政子が律寺を建て、願行上人を開山としたとあります。長楽寺が焼けたあと、今の安養寺が長楽寺の後身として建てられたとも言われています。