• 63 染谷太郎大夫時忠邸阯 そめやのたろうたいふときただていし


碑の説明

染谷(そめや)太郎(のたろう)(とき)(ただ)藤原(ふじわら)鎌足(かまたり)玄孫(げんそん)(あた)リ、南都(なんと)東大寺良辨(とうだいじりょうべん)僧正(そうじょう)(ちち)ニシテ、文武(もんむ)天皇(てんのう)(ぎょ)()皇紀(こうき)一三五七~一三六二)ヨリ、(しょう)()天皇(てんのう)神龜(じんき)年中(ねんじゅう)皇紀(こうき)一三八四~一三八八)ニ(いた)(かん)鎌倉(かまくら)居住(きょじゅう)東八箇國(とうはちかこく)(そう)追捕使(ついぶつし)トナリ、東夷(とうい)(しず)メ、(いつ)由井(ゆい)長者(ちょうじゃ)(しょう)アリト(つた)ヘラルゝモ、其事蹟詳(そのじせきつまびらか)ナラズ。此處(ここ)南方(なんぽう)長者(ちょうじゃ)久保(くぼ)遺名(いめい)アルハ(かれ)邸阯(してい)(とな)ヘラル。尚甘(なおあま)(なわ)神明宮(しんめいぐう)別當甘(べっとうあま)縄院(なわいん)(とき)(ただ)開基(かいき)ナリシト()フ。

昭和十四年三月建  鎌倉町青年團



玄孫(げんそん) (まご)(まご)をいう。文武(ぶんぶ)天皇(てんのう)天武(てんむ)天皇(てんのう)(まご)・第四十二代天皇(てんのう)御宇(ぎょう) 御冶世(ごじせい)。「()」が正しく、文中の「字」はミス・プリント。聖武(しょうむ)天皇(てんのう)文武(ぶんぶ)天皇(てんのう)の子。45(だい)天皇(てんのう)皇紀(こうき) 紀元前660年の2月11日、神武(じんむ)天皇(てんのう)が即位したときをもって日本国が成立したという、非科学的な日本史による紀元・文中の皇紀(こうき)(すべ)て660(ねん)()きます。総追捕使(そうついぶし) ()(かた)注意(ちゅうい)されたし。追捕使(ついぶし)(ちぃう)(てい)から派遣(はけん)されるもので、地方の奸賊(かんぞく)を捕らえる役職名。932年にはじまりました、天慶(てんぎょう)(らん) 以後は、地方に常置(じょうち)されました。追捕使(ついぶし)世襲(せしゅう)されるようになると、総追捕使(そうついぶし)自称(じしょう)しました。天慶(てんぎょう)の乱は、936年、藤原(ふじはら)純友(すみとも)の起こした反乱で瀬戸内海で海賊を働いた。東八箇国 現在の関東地方全域に相当する地域。東夷(とうい)=この碑文(ひぶん)漢文体(かんぶんたい)につき「とうい」と音読(おんどく)。「あづまゑびす」の方の訓読(くんどく)をしない。尚 現在、副詞(ふくし)平仮名(ひらがな)がきが原則(げんそく)でこの()は今は使われません。「(まった)く」「(もっと)も」という副詞の場合は例外として、漢字を変えてもよいことになっています。別当(べっとう) 仏事や神社の長官、甘縄院(あまなわいん) 建物の名前。甘縄(あまなわ)神社(じんじゃ)長谷(はせ)にあるが、そこは安達(あだち)()が住んだところです。次にその安達(あだち)()のことが64で述べられています。


〔参考〕

染谷太郎大夫時忠という人物は生歿とも分らないが「大山寺縁起」によると、良弁という僧の父で鎌倉由比郷の土豪的な存在であったことがうかがえます。碑文にあるように文武天皇(697~707)から聖武天皇(724~728)の時代まで鎌倉に住み、関東八カ国の総追捕使となって関東をしずめたようです。


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