• 64 足達盛長邸址 あだちのもりながていし


碑の説明

(もり)(なが)藤九郎(とうくろう)(しょう)ス。(はじ)(より)(とも)(ひる)(しま)()ルヤ、()(ちから)(あは)セテ()(はかりごと)(たす)ク。石橋山(いしはしやま)一戰(いっせん)源家(げんけ)(うん)骰子(さいし)(まった)黯澹(あんたん)タル前途(ぜんと)(しめ)シヌ。(もり)(なが)頼朝(よりとも)()シ、(へん)(しゅう)(なみ)(しの)イデ安房(あわ)(のが)レ、此處(ここ)散兵(さんぺい)(あつ)メテ挽回(ばんかい)(さく)ス。白旗鎌倉(しろはたかまくら)(うつ)天下(てんか)風靡(ふうび)スルニ(およ)ビ、()(きゅう)(くん)(より)()重用(ちょうよう)セラル。()彌九郎盛景(まごくろうもりかげ)(まご)秋田城介義景(あきたじょうのすけよしかげ)(やしき)()グ。頼朝(よりとも)以來(いらい)将軍(しょうぐん)來臨(らいりん)屡々(しばしば)アリ。()()(すなわち)()邸址(ていし)ナリ。

大正十四年三月建  鎌倉町青年團



()(だち)盛長(もりちょう)は、武家(ぶけ)政権(せいけん)創業(そうぎょう)功臣(こうしん)頼朝(よりとも)政子(まさこ)を取りもった人物でもあり、公私に亘って頼朝(よりとも)を補佐しました。その妻は、比企(ひき)禅尼(ぜんじ)(頼朝(よりとも)乳母(うば)〉の長女、頼朝(よりとも)とは幼馴染(おさななじみ)の間柄であり、頼朝(よりとも)はしばしば()(だち)(てい)を訪れています。その最後の訪問は、建久(けんきゅう)6(1195)年12月2日。『吾妻鏡(あづまかがみ)』には、「将軍家(しょうぐんけ)藤九郎(とうくろう)盛長(もりなが)甘縄(あまなわ)の家に入御(じゅぎょ)今夜(こんや)御止宿(おんとめやど)云々(うんぬん)」とあり、この記述を最後に、本書のいわぱ第一部ともいうべき頼朝編(よりともへん)は終ります。歴史記述の常道からすれば、残る3年の記述がなされてしかるべきですが、現在のところ、欠落のままです。はじめからなかつたのか、故意に破棄されたのか、判然としません。それはさておき、冬の一夜、主従(しゅじゅう)2()(たり)()(かた)(かえり)みて、昔、(とう)太宗(たいそう)侍臣(じしん)取交(とりか)わしたように、「創業(そうぎょう)守成(しゅせい)といずれか(かた)き」を論じ合ったかも知れません。そんな想像が許されるならぱ、この一夜は、守成(しゅせい)を誓い合った記念すべき一夜であり、これを(もっ)て、本編が終ったとしても、不自然ではないように思われてきます。


〔参考〕

藤原魚名の子孫で、代々陸奥国安達郡(福島県)に住み盛長は安達姓を名のった。比企尼の女の婿であった関係から、早くより頼朝の近くあって働き、挙兵にあたっては関東武将の間をまわって頼朝への味方を勧誘している。石橋山の敗戦の際、頼朝と共に甘苦をなめ、頼朝が鎌倉に安定の座を占めてからは、この地に居をかまえました。


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