盛長ハ藤九郎ト稱ス。初メ頼朝ノ蛭ガ島ニ存ルヤ、克ク力ヲ勠セテ其ノ謀ヲ資ク。石橋山ノ一戰、源家ガ運ノ骰子ハ全ク黯澹タル前途ヲ示シヌ。盛長、頼朝二尾シ、扁舟濤ヲ凌イデ安房二逃レ、此處二散兵ヲ萃メテ挽回ヲ策ス。白旗鎌倉二遷リ天下ヲ風靡スルニ及ビ、其ノ舊勲ニ依テ頗ル重用セラル。子、彌九郎盛景、孫秋田城介義景、邸ヲ襲グ。頼朝以來将軍ノ來臨屡々アリ。此ノ地即チ其ノ邸址ナリ。
大正十四年三月建 鎌倉町青年團
安達盛長は、武家政権創業の功臣、頼朝に政子を取りもった人物でもあり、公私に亘って頼朝を補佐しました。その妻は、比企禅尼(頼朝の乳母〉の長女、頼朝とは幼馴染の間柄であり、頼朝はしばしば安達邸を訪れています。その最後の訪問は、建久6(1195)年12月2日。『吾妻鏡』には、「将軍家、藤九郎盛長の甘縄の家に入御。今夜御止宿と云々」とあり、この記述を最後に、本書のいわぱ第一部ともいうべき頼朝編は終ります。歴史記述の常道からすれば、残る3年の記述がなされてしかるべきですが、現在のところ、欠落のままです。はじめからなかつたのか、故意に破棄されたのか、判然としません。それはさておき、冬の一夜、主従2人は来し方を顧みて、昔、唐の太宗と侍臣が取交わしたように、「創業と守成といずれか難き」を論じ合ったかも知れません。そんな想像が許されるならぱ、この一夜は、守成を誓い合った記念すべき一夜であり、これを以て、本編が終ったとしても、不自然ではないように思われてきます。
〔参考〕
藤原魚名の子孫で、代々陸奥国安達郡(福島県)に住み盛長は安達姓を名のった。比企尼の女の婿であった関係から、早くより頼朝の近くあって働き、挙兵にあたっては関東武将の間をまわって頼朝への味方を勧誘している。石橋山の敗戦の際、頼朝と共に甘苦をなめ、頼朝が鎌倉に安定の座を占めてからは、この地に居をかまえました。