萬葉ニ、鎌倉ノ美奈能瀬河トアルハ、此ノ河ナリ。治承四年十月、政子鎌倉ニ入ラントシテ來リ、日並ノ都合ヨリ數日ノ間、此ノ河邊ノ民家ニ逗留セル事アリ。頼朝ガ元暦九年、範頼ノ出陣ヲ見送リタルモ、正治元年、義頼ノ遺骨ヲ出迎ヘタルモ、共ニ此ノ川邊ナリ。元弘三年、義貞ガ當手ノ大将大舘宗氏ノ此ノ川邊ニ於テ討死セルモ人ノ知ル所。細キ流ニモ之ニ結バル、物語少ナカラザルナリ。。
大正十二年三月建 鎌倉町青年團
(注)「文治元年(1185年)8月30日、法皇亦勲功に叡慮の余り、去る12日、刑官に仰せて、東獄門の辺りに於て、故左典厩(頼朝の父の官名)の首を尋ね出され、正清(鎌田二郎)の首を相副へ、江判官公朝を勅使として、これを下さる。今日公朝下著す。よって二品(頼朝)これを迎へ奉らしめんがため、固瀬河辺に参向し給ふ。御遺骨は、文学(文覚)上人の門弟の僧等、頸に懸け奉る。二品みずからこれを請取り奉りて還向す。」と「吾妻鏡」にあります。碑文中の「正治」は文治の誤りです。また元暦九年と刻まれているのも誤りで、これは元暦元年(1184年)が正。正治元年(1199年)一月十三日に、頼朝は死んでいます。
〔参考〕
長谷の大谷戸を水源として大仏のわきから、長谷の街中を南に流れ、江ノ電長谷駅の近くで屈曲して海に入っていく。万葉集によれば、鎌倉時代は京都との往復には必ず渡った川で、喜怒哀楽さまざまの思いの人が川に姿を映したそうです。