• 65 稲瀬川 いなせがわ


碑の説明

(まん)(よう)ニ、鎌倉(かまくら)美奈(みな)能瀬(のせ)(かわ)トアルハ、()(かわ)ナリ。治承(じしょう)四年十月、政子(まさこ)鎌倉(かまくら)(はい)ラントシテ(きた)リ、日並(ひなみ)都合(つごう)ヨリ(すう)(じつ)(かん)()河邊(かわべ)民家(みんか)逗留(とうりゅう)セル(こと)アリ。(より)(とも)元暦(げんりゃく)九年、範頼(のりより)出陣(しゅつじん)見送(みおくり)リタルモ、正治(しょうじ)元年(がんねん)(よし)(より)遺骨(いこつ)()出迎(でむか)ヘタルモ、(とも)()川邊(かわべ)ナリ。元弘(げんこう)三年、(よし)(さだ)當手(とうて)大将(たいしょう)大舘宗(おおだてむね)(うじ)()川邊(かわべ)()(おい)討死(うちじに)セルモ(ひと)()(ところ)(ほそ)(ながれ)ニモ(これ)(むす)バル、物語(ものがたり)(すくな)ナカラザルナリ。。

大正十二年三月建  鎌倉町青年團



(注)「文治(ぶんじ)元年(1185年)8月30日、法皇(ほうおう)勲功(くんこう)叡慮(おもんばか)の余り、去る12日、刑官に仰せて、東獄門(ひがしごくもん)(ほと)りに於て、故左典厩(さまのかみ)(頼朝(よりとも)の父の官名)の首を尋ね出され、正清(まさきよ)(鎌田二郎)の首を相副(あいそえ)へ、(こう)判官(はんがん)公朝(きみとも)勅使(ちょくし)として、これを下さる。今日公朝(きみとも)下著す。よって二品(頼朝(よりとも))これを迎へ奉らしめんがため、固瀬河辺に参向し給ふ。御遺骨(ごいこつ)は、文学(もんがく)(文覚)上人(しょうにん)の門弟の僧等、(くび)()(たてまつ)る。二品みずからこれを(うけ)(とり)(たてまつ)りて()(こう)す。」と「吾妻鏡(あづまかがみ)」にあります。碑文中の「正治(しょうじ)」は文治(ぶんじ)の誤りです。また元暦(げんりゃく)九年と刻まれているのも誤りで、これは元暦(げんりゃく)元年(1184年)が正。正治(しょうじ)元年(1199年)一月十三日に、頼朝(よりとも)は死んでいます。


〔参考〕

長谷の大谷戸を水源として大仏のわきから、長谷の街中を南に流れ、江ノ電長谷駅の近くで屈曲して海に入っていく。万葉集によれば、鎌倉時代は京都との往復には必ず渡った川で、喜怒哀楽さまざまの思いの人が川に姿を映したそうです。


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