宿谷左衛門尉光則ハ北條時頼ノ近臣ナリ。文應元年七月十六日日蓮聖人、「立正安國論」ヲ時頼ニ上ラント欲シ、光則ヲ長谷ノ邸ニ訪ヒ縷々其ノ趣旨ヲ説キ之ヲ手交ス。聖人龍口法難ノ時、最愛ノ弟子日朗ノ囚ヘラレタルハ、邸後山腹ノ土牢ニシテ、億萬斯年師考ノ哀話ヲ刻ス。光則深ク聖人ニ服シ、遂ニ邸ヲ寄セテ寺ヲ創ム。實ニ此ノ光則寺ナリ。過グル人其レ襟ヲ正シテ當時ヲ追懐セヨヤ。
昭和十五年三月建 鎌倉市青年團
縷々=いとのように細長くつらなるさまを意味する文字で、くどくどとしているさまをいいます。熱心に説いたという意味。竜口法難 (当時、竜口は処刑場)。現在は竜口寺となっています。土牢(長谷の光則寺の山中にある。(公開中) 億万斯年辞書にない語句だが「永久に」という意味です。師考先生に対する敬愛。または師匠の弟子に対する愛情。本分は後者とします。日蓮上人は弟子の日朗が土牢に押し込められたのをたいへん気使い、これを激励しているからです。
〔参考〕
宿谷左衛門尉光則は北條時頼の近習というが、特に役職の記録はない。吾妻鏡に弘長三年(1263)北條時頼が危篤になったので、最明寺北邸に移して、心静かに臨終の時を得られるよう、宿谷左衛門尉等に仰せて、群集の見舞の人を止めさせたとあります。