• 68 極樂寺坂 ごくらくじざか


碑の説明

此所(このところ)往古(おうこ)畳山(じょうざん)ナリシヲ、極樂寺(ごくらくじ)開山(かいざん)忍性(にんしょう)菩薩(ぼさつ)()(さく)シテ一條(いちじょう)(みち)(ひら)キシト()フ。(すなわ)極樂寺(ごくらくじ)切通(きりどおし)(とな)フルハ(これ)ナリ。元弘(げんこう)(ねん)鎌倉(かまくら)討入(うちい)リニ(さい)シ、大館(おおだての)次郎(じろう)(むね)(うじ)江田(えだの)三郎(さぶろう)(いく)(よし)ハ、新田軍(にったぐん)大将(たいしょう)トシテ此便(このべん)()(むか)ヒ、大佛(おさらぎ)陸奥(むつの)(かみ)(さだ)(なお)鎌倉軍(かまくらぐん)(しょう)トシテ此所(このところ)(かた)相戰(あいたたか)フ。

昭和七年三月建  鎌倉町青年團



坂の下から成就院(じょうじゅいん)へ至る細い道が旧極楽(きゅうごくらく)寺坂(じさか)であり、現在の広い坂道は新道です。忍性(にんしょう)は社会福祉事業に献身し、病者や馬の治療に当り、貧者にはかゆを施し、死後、()醍醐(だいご)天皇より菩薩号(ぼさつごう)を賜わりました。坂上の極楽(ごくらく)()内には、忍性(にんしょう)の遺品の石臼(いしうす)(製薬用)などがあります。その墓は後方の裏山に在り、巨大な五輪塔(ごりんとう)。年に一度、4月8日の花祭りの日に公開されます。


〔参考〕

この切通しが利用できるようになり、京都から東海道を通って仮粧坂、巨福呂坂へと迂回したり、稲村ガ崎の山道を通ることなく、鎌倉に直行できるようになり、産業、交通上に大きな貢献となりました。新田義忠が鎌倉攻略の突破口とするため、大館宗氏以下3万人の軍勢で攻めたが、守る大仏陸奥守貞直の軍勢2万も、極楽寺口を通さじと、烈しい戦いがくりひろげられた坂です。


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