此所往古畳山ナリシヲ、極樂寺開山忍性菩薩、疎鑿シテ一條ノ路ヲ開キシト云フ。即チ極樂寺切通ト唱フルハ是ナリ。元弘三年ノ鎌倉討入リニ際シ、大館次郎宗氏、江田三郎行義ハ、新田軍ノ大将トシテ此便路ニ向ヒ、大佛陸奥守貞直ハ鎌倉軍ノ将トシテ此所ヲ堅メ相戰フ。
昭和七年三月建 鎌倉町青年團
坂の下から成就院へ至る細い道が旧極楽寺坂であり、現在の広い坂道は新道です。忍性は社会福祉事業に献身し、病者や馬の治療に当り、貧者にはかゆを施し、死後、後醍醐天皇より菩薩号を賜わりました。坂上の極楽寺内には、忍性の遺品の石臼(製薬用)などがあります。その墓は後方の裏山に在り、巨大な五輪塔。年に一度、4月8日の花祭りの日に公開されます。
〔参考〕
この切通しが利用できるようになり、京都から東海道を通って仮粧坂、巨福呂坂へと迂回したり、稲村ガ崎の山道を通ることなく、鎌倉に直行できるようになり、産業、交通上に大きな貢献となりました。新田義忠が鎌倉攻略の突破口とするため、大館宗氏以下3万人の軍勢で攻めたが、守る大仏陸奥守貞直の軍勢2万も、極楽寺口を通さじと、烈しい戦いがくりひろげられた坂です。