• 69 阿佛邸舊蹟 あぶつていきゅうせき


碑の説明

阿佛(あぶつ)藤原(ふじわらの)定家(さだいえ)()為家(ためいえ)(しつ)ニシテ、和歌(わか)師範家(しはんけ)冷泉家(れいぜいけ)()為相(ためすけ)(はは)ナリ。為相(ためすけ)異母(いぼ)(けい)(ため)(うじ)為相(ためすけ)(ぞく)スベキ和歌(わか)(ところ)所領(しょりょう)播磨(はりまの)細川(ほそかわ)(しょう)横領(おうりょう)セルヲ(もっ)(これ)執権(しっけん)時宗(ときむね)(うった)へ、()裁決(さいけつ)()ハントシ、(けん)()三年、(きょう)()デテ(あずま)(くだ)リ、(きょ)月影ヶ谷(つきかげがやつ)(ぼく)ス。(すなわ)(この)()ナリ。()(おり)()日記(にき)ヲ「十六夜(いざよい)日記(のにき)」ト()ヒテ()()ラル。係争(けいそう)(ひさ)シキニ(わた)リテ(けつ)セズ。弘安(こうあん)四年、(つい)(ここ)歿(ぼつ)ス。

大正九年三月建  鎌倉町青年會



阿佛(あぶつ)は、弘安(こうあん)(1283)年ごろ、京都で没したともいわれ、また、弘安(こうあん)四(1281)年、鎌倉で没したともいわれております。なお、JR鎌倉駅近くの線路沿いに阿佛(あぶつ)の墓があります。彼女は、藤原為家(ためいえ)(定家(ていか)嫡男(ちゃくなん))の後妻(ごさい)です。わが子為相(ためすけ)の所領が異母兄為氏(ためうじ)に奪われたのを不法とし、鎌倉に下向(げこう)して間注所(もんちゅうじょ)に訴え出ました。1277年のことです。昔も今も変らず裁判は長びき、1313年ようやく為相(ためすけ)の勝と裁断されました。それより早く母の阿佛(あぶつ)()は1283年ごろ、京都で死んでおります。『十六夜(いざよい)日記(のにき)』の中で、月影ケ谷を、阿佛(あぶつ)()は次のように記しました。(あずま)にて住む所は、月影の谷(つきかげがやつ)とぞいふなる。浦近き山もとにて、風いと荒らし。山寺のかたはらなれば、のどかにすごくて(静かでもの寂しい)、波の音、松の風たえず。」(「すごく」はものさびしいという意味で、現代語とはまったく異なります。)


〔参考〕

阿佛尼は平佐渡守度繁の女で安嘉門院(後高倉院の皇女邦子内親王)の侍女、四条又衛門佐とよばれ、後に藤原為家の後妻となったが仏門に入り、阿佛といい、北林禅尼と号した。


<< 前のページへ次のページへ >>