阿佛ハ藤原定家ノ子為家ノ室ニシテ、和歌ノ師範家冷泉家ノ祖、為相ノ母ナリ。為相ノ異母兄為氏、為相ニ属スベキ和歌所ノ所領、播磨細川ノ庄ヲ横領セルヲ以テ之ヲ執権時宗ニ訴へ、其ノ裁決ヲ乞ハントシ、建治三年、京ヲ出デテ東二下リ、居ヲ月影ヶ谷ニ卜ス。即チ此ノ地ナリ。其ノ折ノ日記ヲ「十六夜日記」ト云ヒテ世二知ラル。係争久シキニ彌リテ決セズ。弘安四年、遂ニ此ニ歿ス。
大正九年三月建 鎌倉町青年會
阿佛は、弘安六(1283)年ごろ、京都で没したともいわれ、また、弘安四(1281)年、鎌倉で没したともいわれております。なお、JR鎌倉駅近くの線路沿いに阿佛の墓があります。彼女は、藤原為家(定家の嫡男)の後妻です。わが子為相の所領が異母兄為氏に奪われたのを不法とし、鎌倉に下向して間注所に訴え出ました。1277年のことです。昔も今も変らず裁判は長びき、1313年ようやく為相の勝と裁断されました。それより早く母の阿佛尼は1283年ごろ、京都で死んでおります。『十六夜日記』の中で、月影ケ谷を、阿佛尼は次のように記しました。「東にて住む所は、月影の谷とぞいふなる。浦近き山もとにて、風いと荒らし。山寺のかたはらなれば、のどかにすごくて(静かでもの寂しい)、波の音、松の風たえず。」(「すごく」はものさびしいという意味で、現代語とはまったく異なります。)
〔参考〕
阿佛尼は平佐渡守度繁の女で安嘉門院(後高倉院の皇女邦子内親王)の侍女、四条又衛門佐とよばれ、後に藤原為家の後妻となったが仏門に入り、阿佛といい、北林禅尼と号した。