元弘三年五月十九日、新田勢大館又次郎宗氏ヲ将トシテ、極樂寺ロヨリ鎌倉ニ攻入ラントセシニ、敵中、本間山城左衛門手兵ヲ率ヰテ、大館ノ本陣ニ斬込ミ、為ニ宗氏主従十一人戰死セリ。即チ遺骸ヲ茲ニ?メ、十一面観音ノ像ヲ以テ、其ノ英魂ヲ弔シ、之ヲ十一人塚ト稱セシト云フ。
昭和六年三月 鎌倉町青年團
即ち=さっそく。茲その場所に。?め=?は病人または病死した人。夾=はさむ。土=つち。 病死したものを土ではさむようにして埋葬するという文字。この場合は戦死だから、用字としては的確ではありません。 稲村ヶ崎の海岸に出る道筋に在ります。新田義貞の部下11人の霊を弔うために建てられた十一面観音堂があった堂は現在失われ、鎌倉市の史跡に指定されている江戸時代建立の墓標のみが残っています。
〔参考〕
元弘三年(1333)の鎌倉攻めに際し、新田義貞は軍勢を三手に分けて激しい戦闘を繰り広げた。その中で唯一切通しを突破したのが極楽寺切通しを攻めた大館宗氏率いる11人。しかし結局は由比ガ浜で孤立し自刀したという。今は碑のみになています。