• 71 十一人塚 じゅういちにんづか


碑の説明

元弘(げんこう)三年五月十九日、新田勢(にったぜい)大館(おおだて)(また)次郎宗(じろうむね)(うじ)(しょう)トシテ、極樂寺(ごくらくじ)(ぐち)ヨリ鎌倉(かまくら)攻入(せめい)ラントセシニ、敵中(てきちゅう)本間(ほんま)山城(やましろ)()衛門(えもん)手兵(しゅへい)(ひき)()テ、大館(おおだて)本陣(ほんじん)(きり)()ミ、(ため)宗氏(むねうじ)主従(しゅじゅう)十一人戰死(せんし)セリ。(すなわ)遺骸(いがい)(ここ)?(うず)メ、十一面(じゅういちめん)観音(かんのん)(ぞう)(もっ)テ、()英魂(えいこん)(ちょう)シ、(これ)十一人(じゅういちにん)(づか)(しょう)セシト()フ。

昭和六年三月  鎌倉町青年團



(すなわ)=さっそく。(ここ)その場所に。?(うず)め=?は病人または病死した人。夾=はさむ。土=つち。  病死したものを土ではさむようにして埋葬するという文字。この場合は戦死だから、用字としては的確ではありません。 稲村ヶ崎の海岸に出る道筋に在ります。新田(にった)義貞(よしさだ)の部下11人の霊を弔うために建てられた十一面(じゅういちめん)観音堂(かんのんどう)があった堂は現在失われ、鎌倉市の史跡に指定されている江戸時代建立の墓標のみが残っています。


〔参考〕

元弘三年(1333)の鎌倉攻めに際し、新田義貞は軍勢を三手に分けて激しい戦闘を繰り広げた。その中で唯一切通しを突破したのが極楽寺切通しを攻めた大館宗氏率いる11人。しかし結局は由比ガ浜で孤立し自刀したという。今は碑のみになています。


<< 前のページへ次のページへ >>