和田宿は西に難所和田峠を控え大いに賑わった。1861年3月10日の大火で宿並のおよそ3分の2にあたる百数軒が焼失、折から同年十一月の皇女和宮の通行を控え、本陣を始め宿並が急遽復興された。1843年の中山道宿村大概帳によると、和田宿の宿内家数は126軒、うち本陣1、脇本陣2、問屋2、旅籠28軒、宿内人口は522人(男272人、女250人)、宿並は下町、中町、上町、概場新田の4町で構成され、宿長は7町58間(約870m)。。
和田と下諏訪の間の、和田峠の雪景色。冬季の積雪は3メートルにも及ぶことあり、牛馬での運行ができず、人足が徒歩で荷駄を担ぎ上げたという。