浦和宿は1590年豊臣秀吉の小田原攻めに際して、こる地を領した家臣の浅野長政は民心安定の為に二と七のつく日に市を開かせた、この市は月六回開かれたところから「六斎市」と呼ばれ終戦まで続いた、1843年の中山道宿村大概帳によると浦和宿の宿内家数は273軒、うち本陣1、?本陣3、旅籠15、問屋場1、高札場1、自身番所1軒、宿内人口は1,230人、宿並は10町42間(約1.2km〉で下宿(髙砂)、中宿(仲町〉、上宿(常盤)で構成され、天領。浦和宿は江戸に近いために旅籠は少ない。
市で買い付けた品物を馬に載せている。遠く浅間山が煙をたなびかせている。武士と、両掛け荷物を担ぐ男が大宮宿に向う。