追分宿は飯盛が盛んで、35軒の旅龍に250人の飯盛がいた、追分節に「浅間山から飛んでくる烏金も無いのにかうかうと」「浅間山から追分見れば飯盛女郎がうようよと」と唄われ、これに対して飯盛りは「三味を横抱き浅間を眺め辛い勤めと眼に涙」と返している。宿の西には北国街道の分去れ(追分)を控え大いに賑わった。1843年の中山道宿村大概帳によれば、追分宿の宿内家数は103軒、うち本陣1、脇本陣2、旅籠35軒で宿内人口は712人(男263人、女449人)、宿長は5町40間(約617m)。
眼前にそそり立つ浅間山。二本差の武士が2人、人足に長持ちの荷を担がせている。馬子が茶を積んだ馬を引いて行く。