関ヶ原宿は伊吹山地と鈴鹿山系が迫る狭隘の地(現在でも東海道線、国道、名神高速が集中)で軍事上の要衝であった。関ヶ原宿は勢州路(伊勢街道)や北国脇往還(北国街道)の追分を控え、問屋場は8軒置かれ、美濃16宿中加納に次ぐ規模を誇った。1843年の中山道宿村大概帳によると関ヶ原宿の宿内家数は269軒、うち本陣1、脇本陣1、旅籠23軒、宿内人口は1,399人(男685人、女704人)。
右の茶屋の柱の看板には上に「三五」、その下に「そばきり」「うんどん」の文字が見える。「三五」は江戸から数えて35番目であることを示している。